心のSOS

精神科の診察室から 精神科医・長岡 和

vol.09 幻覚体験と被害妄想が平凡な日常生活を打ち砕く~統合失調症

 賢治は大きな声で「俺が何をしたって言うんだ!」と叫んだ。そして、大きく目を見開き、手では強く布団を握りしめていた。「夢か・・・」ドッと疲労感が賢治を襲った。夢にしてはあまりにもリアルで苦しい悪夢だった。首もとから胸にかけてジットリと滲んだ汗がその苦しさを物語っていた。賢治は大きく息を吐いた。そして、枕元の時計に目をやった。まだ、3時40分をまわった頃で、カーテンの向こうは当然、漆黒の闇であり、物音もない。ただ、自分の早い鼓動だけが闇の中で大きく響いている様な気がした。昨夜、仕事を終えて、帰宅したのは既に10時をまわっていた。軽く、遅い夕食を食べ終え、シャワーを浴びて床に就いたのは深夜0時過ぎだったはずである。それからまだ3時間半ほどしか経っていない。随分長い時間、悪夢の中を彷徨っていた様な気がした。結局、賢治はそのまま寝付けず、疲れ切った体と心のままで、夜明けを迎えてしまった。

 明らかに、最近の賢治の睡眠時間は減っていた。熟睡することが出来ず、悪夢にうなされ、深夜に目が覚め、そのまま夜明けを迎えるのだ。当然の如く、昼間も気分はさえず、集中力に欠け、仕事でもつまらないミスを犯しては課長に厳しく指摘された。また、体も気怠く、疲れやすかった。休日はほとんどマンションから出かけることもなく、自宅で一人ぼんやりと過ごすことが多くなった。そして、会社でも些細なことで苛立ち、今日もミスを指摘してきた課長と衝突した。課長は賢治のミスを指摘し、指導しただけであったが、賢治には最近、妙に自分だけが課長からやり玉に挙げられている様な気がしていたのだ。そして、遂にある日その思いが一気に爆発した。

  • 賢治:「課長!そんなに私のことが気に入らないんですか!私が課長に何か失礼なことでもしましたか!何か私に恨みでもあるんですか!そうなんでしょう!ハッキリ言えばいいじゃないですか!」
  • 課長:「原君。君は何を言っているんだい?私はただこの資料の数字が間違っているんじゃないかなと指摘しただけだよ。キチンともう一度調べてみてくれたらそれで良いじゃないか。何をそんなに興奮しているんだい?最近、少し疲れているんじゃないかい?」

 賢治の大きな声とただならぬ様子に周りの職員も一斉に驚いた表情で賢治と課長の様子を見ていた。

  • 賢治:「何がそんなに面白いんだ!俺が何かお前らに悪いことでもしたって言うのか!ハッキリ言えば良いじゃないか!どうせお前らみんなして俺のことを馬鹿にしているんだろう!ふざけんなよ!」
  • 課長:「原君。今日はもう良いから帰りなさい。今日の君はどうかしているよ。ゆっくり、休みなさい」

 賢治は興奮したまま、会社を後にした。そして、少し気を鎮めようと行きつけのコーヒーショップに入った。しかし、何となくいつもと雰囲気が違う気がした。ショップに入るなり、客の話し声がひどく気になった。そして笑い声。視線。全てが自分に向けられている気がした。それでもいつもの様にエスプレッソを店員にオーダーした。その時、店員が「エスプレッソをお一つですね。ほかにはよろしいですか?」と笑顔で賢治に確認してきた。賢治にはその店員の笑顔が自分のことを小馬鹿にしている様に感じられた。

  • 賢治:「エスプレッソって言ってんだろうが!何か文句あんのかよ!」

 その賢治の言葉に若い女性の店員は驚き、「申し訳御座いません。すぐにご用意致しますのでしばらくお待ち下さい」と震える声で答えるのがやっとだった。そのやり取りに客も一斉にオーダーカウンターの方を振り返った。そして、一部の客は賢治を見やりながら、小声で何やら話していた。また別の客は我関せずと言った風であった。賢治は注文したエスプレッソを受け取り、空いた席を探し、腰を下ろした。そして、程なく隣の二人組の若い女性客が席を立った。その時だった。

  • 賢治:「お前ら!何か俺に文句あんのかよ!俺が隣に座ったから帰るのかよ!ふざけんなよ!」

 若い女性客はビックリした様子で、足早にその場を立ち去った。

  • 賢治:「何だ。何奴も此奴も俺のことを馬鹿にしやがって!」

 賢治は吐き捨てる様に独り言を言っていた。賢治には明らかに、いつもとは違う世界に思えていた。全ての事が自分にとって悪意と敵意の結果の様に思え、目にするもの、耳にするもの全てが自分の事に関係している様に思えてならなかった。そして、自分の事をみんなが馬鹿にし、せせら笑っているかの様に思え、辺り構わず暴言を吐き、因縁を付ける様な格好になっていた。そして、苛立ちは治まるどころか、更にエスカレートしていった。

 賢治が自宅のマンションに戻ったのが夕方の5時過ぎだった。スーツを脱ぎ、いつもの様にラフな格好に着替えて、ソファーに深く腰を沈め、大きく息を吐き、頭を抱え込んだ。

  • 賢治:「どうしたんだ。今日の俺は明らかにおかしい。何でこんなに苛立っているんだ・・・」

 その時、「お前はとんでもない奴だ!馬鹿だ!死ね!」という声が響いてきた。賢治は驚き、慌てて顔を上げ、周りを見渡した。当然、誰も居るはずはない。そして、再び「死ね!死ね!」と頭の中で誰かの声が響いた。

 賢治は地方の大学を卒業し、大手のマンション販売会社に就職した。それから約5年、27歳になる今までこのワンルームマンションに一人暮らしをしてきた。仕事は営業が中心でそれなりのノルマが課せられてはいたが、まずまずの成績を残していたし、同僚達との関係も悪くなかった。

 賢治はその翌日から出社せず、自宅に引きこもってしまった。携帯電話に会社からと思われる着信が何度もあったが、賢治は携帯を手にすることはなかった。また、親しい同僚からも賢治の事を心配するメールが何件も入った。しかし、それらを確認する度に賢治は疑い、怯えた。「奴らはみんなグルなんだ!どうしてそこまでして俺を追いつめるんだ!」それから、数日経ってから、田舎の両親が賢治のもとを尋ねてきた。会社から両親のもとへ連絡がいったらしい。それを聴いた賢治は両親に対して「親父達もグルなのかよ!」両親は賢治の様子がおかしい事に気付き、その言動の異常さに驚かされた。そして、両親は賢治を一旦、田舎に連れ帰り、病院に連れて行くことを決断した。

 精神科医は一連の経過を賢治と両親から詳細に聞き取り、診断を「統合失調症(妄想型)」と告知した。そして、その疾患が約100人に1人の割合で発症する決して珍しい疾患ではないと前置きしながら、その症状特性や発病のメカニズム、そして、一連の治療方針を示し、即日入院の上、抗精神病薬を主剤とした薬物療法を行う必要性を告げた。

 統合失調症は脳内に於いてドーパミンの爆発的な増大を主体として、複数の神経伝達物質のアンバランスが生じることで幻覚体験(幻聴・幻視・体感幻覚等)、被害妄想(注察妄想・追跡妄想・被毒妄想等)、思考の混乱と障害、精神運動興奮、睡眠障害等の精神症状を呈する。そしてこれらの華々しい症状(陽性症状)を薬物療法をもって、治療していく。しかし、その後も意欲活動性の低下、思考障害、集中力や注意力の低下、社会的生活技能の低下などの症状(陰性症状)を呈し、閉じ籠もりがちな生活傾向を示すことが多い。しかし、近年、優れた抗精神病薬の開発が進み、これらの症状の多くを薬物療法をもって改善することが可能となってきている。

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