心のSOS

精神科の診察室から 精神科医・長岡 和

vol.08 合法的「ドラッグ」アルコールの忍び寄る恐怖と
崩壊人生~アルコール依存症

 今、思い返してみると達也が初めてお酒を口にしたのは高校を卒業して、東京都内の大学に進学した頃だった。高校時代は進学校で特別には部活動もせず、夕方の授業が終わると帰宅し、その後は予備校の現役コースへ通う単調な毎日だった。そして、20年前の3月、第一志望であった都内の有名私立大学に見事合格し入学を果たした。達也の中では、これから始まる楽しいキャンパスライフ、サークル活動、そして、女の子達との楽しい合コンといった具合に抑圧された高校時代からの開放感も手伝って、想像と期待は大きく膨らんでいた。実際、大学入学時から熱心に先輩達から勧誘され、テニス愛好会に入会し、それなりに楽しく過ごしていた。当然、待ちに待った女子大との合コンも企画されていた。まずはビールでの乾杯に始まり、先輩や女の子のかけ声に合わせて、ビールジョッキを一気に飲み干した。そして、次は酎ハイ、カクテルと進んでいく。合コンが盛り上がるにつれて、達也の記憶と足下は覚束無くなっていった。最初の合コンは撃沈。先輩達に両肩を抱えられながら、アパートにたどり着き、途切れ途切れの記憶の中でベッドに倒れ込んだ。そんな具合に始まった達也のアルコールとの関係。次第にお酒にも慣れ、最初の様なぶざまな撃沈劇はなくなり、次第に仲間や女の子達との合コンも上手にこなし、それなりの「美味しい想い」もしてきた。

 大学の4年生の夏には既に大手証券会社への入社が決まり、楽しい大学生生活も残り僅かとなっていた。この頃には、達也にとって、アルコールは夕食の時には、「取り敢えずビール」といった具合に、完全に生活の一部になっていた。幸いなことにアルコールで大きな失敗をすると言ったこともなく、上手にアルコールと付き合うことが出来ていた。そして、大学を無事卒業。

 4月からは大手証券会社の営業部に配属され、順風満帆の社会人生活のスタートを切った。その頃は、いわゆるバブル経済の真っ直中で、連日の様に東証株式市場では多くの銘柄がストップ高となる株価を叩き出し、証券会社に入社した達也にはまるで大学時代のサークル活動の延長線上に仕事があるかの如く、何もかもが上手く行っていた。連日連夜、顧客の接待に追われつつも、それはそれで楽しかった。26歳の時には、多くの友人や会社の同僚に祝福されて、3年間の交際を経て妻、優子と結婚。1年後には長女の早紀が生まれ、全てが順調に進んでいるかに思えた。

 しかし、そんな夢の様な生活はそう長くは続かなかった。バブル崩壊。一気に景気は冷え込み、連日、ストップ高を更新し続けていた東証株式市場では大手のメーカー、都市銀行をはじめ各銘柄がストップ安を記録。それまでは、さして営業らしい営業をせずとも達也の成績はそれなりの数字を叩き出し、仕事で苦労し、つまずくことはほとんどなかった。バブル崩壊は一証券マンである達也の力でどうこうなる様なレベルではなかった。こうなるとさすがの大手証券会社であっても手の打ちようがない。バブルで景気の良かった時の顧客達の足もぱったりと遠のき、それどころか、連日クレームの対応に追われる日々となった。

  • 達也:「優子!もう一本、ボトルを持ってこい!」
  • 優子:「あなた。もう、今夜はそれくらいにしておいたら・・・。最近、飲み過ぎよ」
  • 達也:「うるさい!俺が稼いだ金で俺がいくら酒を飲もうと勝手だろうが!早く持ってこい!」
  • 優子:「私はあなたの体のことを心配して言ってるの。早紀もビックリしてるじゃない。」
  • 達也:「いいから早くもってこいよ!俺の体は俺が一番解ってるんだ!」

 達也のアルコールの飲み方は明らかに以前のそれとは違っていた。連日の仕事の憂さを晴らす様に、アルコールに溺れていった。酒量も明らかに増え、優子の言葉に対しても、怒鳴り散らすばかりであった。次第に、優子との会話も減り、夫婦関係も冷え切っていった。そして、今度はそれを口実に達也の足は、仕事場から直接、飲屋街へと向かう様になった。そして、泥酔状態で帰宅しては、優子に言いがかりを付けては怒鳴り付け、その声に幼稚園に通う様になった早紀は目を覚ました。こんな生活がもう一年以上続いていた。

 そして、ある日突然に会社が倒産。この事実は社員にすら全く知らされることなく、達也はその事実をニュース番組の速報で知ることとなった。大手証券会社の倒産と言う事実は各紙のトップの紙面を飾り、日本経済に大きな衝撃を与えた。そして、その事実は達也一家を一気に奈落の底に突き落とすこととなった。まだ、購入して4年しか経たないマンションのローンのほとんどは残っており、一円の退職金も出なかった。一瞬にして、達也の人生設計は狂い、崩壊した。そして、この現実が更に達也をアルコール漬けの生活に追いやった。そんな達也に優子は黙って離婚届を差し出した。

  • 達也:「何だ!これは!優子!」
  • 優子:「もうこれ以上私はあなたと一緒に生活していけません・・・」
  • 達也:「何を言ってるんだ!さてはお前、男でもいるのか!そうだろう!」

優子は怒鳴りつける達也を悲しげな眼差しで見詰めた。

  • 優子:「もう、これ以上、こんなあなたを見続けて生活する事なんて私にはできないの。早紀は私が責任を持って育てていきますから。」

 優子の表情は氷の様に冷たく、硬かった。そして、しばらくして優子は幼い早紀の手を引いて達也のもとから去っていった。その後の達也の生活は更にすさんでいった。ほとんど食事を取ることもなく、朝から終日飲酒する生活となった。そして、達也の母親である末子が心配して田舎から上京し、自宅を訪ねた時には変わり果てポツリと座り込んだ達也がいた。頬は落ち窪み、やせ細った手足。そして、目はうつろで焦点が合わず、目の前にいるのが自分の母親であることすら充分認識出来ない状態だった。その様子に驚いた母親は変わり果てた我が息子を抱きしめた。

  • 末子:「どうしたの!達也!何故こんな姿に・・・」

 嗚咽まじりに絶句した。その後、しばらくして、達也は都内の救急救命センターに救急車で搬送された。そして、様々な精密検査が行われ、その検査結果が担当の内科医から説明された。その内容は「アルコール性肝機能障害に伴う高アンモニア血症による意識障害。更に、慢性膵臓炎、高脂血症、高尿酸血症、糖尿病等の様々な疾患を併発しており、頭部MRIでは39歳とは思えないほどの脳全体の萎縮傾向が明らかに認められる」と言った内容であった。そして、最後にその内科医は「少し身体的に回復したら精神科病院へ転院しましょう」と告げて立ち去った。

 今、達也は千葉県内の精神科病院に転院して、既に2ヶ月が経とうとしている。病棟の窓からは遠くに輝く太平洋が見える。達也はこの病院に転院して「アルコール依存症」と診断され、アルコール依存症に対する治療・教育プログラムに則って治療を受けている。その達也の横顔は、当時のエリート証券マンの面影はなく、うっすらと生えた髭のせいか年齢以上に老けて見えた。遠くに見える海を見ながら達也はポツリと呟き、視線を足下に落とした。

  • 達也:「全てを失ってしまった・・・」

 アルコールは日本社会では合法的な「ドラッグ」とされている。いや「ドラッグ」とさえ認識されず「百薬の長」、「社会の潤滑油」といった言葉でもてはやされ、24時間、365日、何処でも、誰でも手に入れることが出来る。日本に於ける飲酒人口は約7000万人とも言われ、若年者や女性を含めて、増加の一途を辿っている。その中で「アルコール依存症」と医学的診断がつくとされる者が少なくとも300~400万人はいるとされている。しかし、精神科をはじめとした医療機関を受診してその診断を告げられている者は僅かに20万人。即ち、ほとんどの「アルコール依存症」の患者達は潜在的な患者として存在しており、アルコールという合法的な「ドラッグ」の恐怖を知らないまま、今日も飲酒を続けている。そして、世界に誇る長寿国日本に於いて、これらの「アルコール依存症」患者の平均寿命は一説には52歳とのデータもあるほどである。

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