心のSOS

精神科の診察室から 精神科医・長岡 和

vol.02 突然襲い来る死への恐怖 ~パニック障害~

 美由紀が少しうつむき加減に救急外来の診察室を出てきた。それを待ちかまえていた様に幼い娘を抱いた夫の浩一が歩み寄る。娘の美咲は浩一の腕の中で寝息を立てている。

  • 浩一:「美由紀、大丈夫か?」

 浩一は心配そうに美由紀の顔をのぞき込みながら優しく語りかけた。美由紀はこくりと小さくうなずき、弱々しく「今は大丈夫・・・」と答えた。そんな会話を交わしていた時に診察室から宿直の内科医が出てきた。白衣の前のボタンは留められることもなくだらしなく開け放たれ、首には聴診器がぶら下がっていた。そして、面倒くさそうに浩一と美由紀の方を見ながら言った。

  • 内科医: 「心電図も異常ないですし、不整脈もありません。今のところ、心配する必要はないと思いますよ。右手の時間外受付で精算されて帰られて結構ですよ」

 そう言って内科医は「お大事に」と言いながら背を向けて歩き出した。美由紀は少し慌てて、顔を上げた。

  • 美由紀:「先生!あのう・・・本当に大丈夫なんでしょうか?」
  • 内科医:「心配だったら、詳しく検査しますけど・・・。少し疲れていたんじゃないですか?」

 内科医はまた、背を向けて歩き出した。美由紀は何となく不安だった。しかし、内科医が言う様に今は動悸もなく、規則正しく心臓が脈を打っていることは美由紀にもわかった。そして、あの瞬間に感じた恐怖も息苦しさも嘘の様に消えていた。しかし、美由紀の心の中には言いようのない不安がぽつんと残されていた。

  • 浩一:「良かったじゃないか。何もなくて。最近、色々忙しかったし、疲れていたんだよ」

 浩一の優しい言葉が美由紀の不安を優しく包んだ。時刻は既に夜中の12時をまわっていた。

 美由紀はその日もいつもの様に浩一と美咲とともに夕食を済ませ、美咲を寝かしつけた後、ソファに座り、テレビドラマを見ていた。その傍らで浩一は寝転がって雑誌を見ていた。美由紀はドラマの次回予告が終わったのを見届け、お風呂に入ろうソファから立ち上がった。その瞬間だった。急に胸痛を感じ、激しく動悸を覚えた。そして、窒息感とともに息苦しくなり、気が遠くなりそうになりながらフローリングの床に倒れ込んだ。美由紀は直感的に「死ぬのでは・・・」と思った。浩一が美由紀の変調に気付き歩み寄った。

  • 浩一:「美由紀!どうした!」
  • 美由紀:「苦しいの・・・救急車を・・・」

 美由紀はそう言うのが精一杯だった。美由紀の体は小刻みに震え、うっすらと冷や汗をかいていた。そして、顔面は青ざめ、呼吸は浅く、早かった。浩一もその美由紀の様子から慌てて電話に駆け寄り、ふるえる指で119をプッシュした。美由紀も浩一もその後、どうやって救急車に乗り込み、どう状況を説明したのか覚えていなかった。ただ、寝ていた美咲を抱きかかえ、早く病院に着くことだけを念じていた。
 翌朝、美由紀はいつもよりも早く目が覚めた。そして、ベッドの中でそっと手首に触れ脈を確かめた。しばらくしてから恐る恐るベッドを抜け出した。「生きてる・・・」美由紀は心の中で小さくつぶやいた。そして、いつもの様にソファに腰掛けた。昨夜の事が悪夢の様に思えた。美由紀が朝食の準備をしていると、浩一がボサボサの頭を掻きながら起きてきた。

  • 浩一:「大丈夫か?美由紀」
  • 美由紀:「大丈夫みたい。やっぱり疲れてたのかしら・・・」

 確かにそこにはいつもの朝と何も変わらない光景があった。美由紀のこころに芽生えた小さな不安以外は。

 あの悪夢の様な晩から10日ほどが過ぎた。あれ以後は特に動悸もなく、息苦しくなることもなかった。美由紀自身もあの晩の出来事を少しずつ忘れかけていた。そんな美由紀を再びあの強烈な「死への恐怖」が襲ったのは日曜日の午後だった。それから、立て続けに発作は起こった。そして、国立病院の循環器内科を受診し、ホルター心電図、心エコーをはじめとした様々な検査を受けた。しかし、どの検査も美由紀の心臓機能に異常を疑わせる様な所見を示すことはなかった。しかし、その検査結果を聞く度に美由紀の不安は増大していった。そして、次第に明るく社交的な美由紀とは別人の様に自宅に引きこもり、美由紀の顔からは笑顔が消えた。美由紀は一日中あの「死への恐怖」に怯えながら生活する様になった。
「もし、お買い物している時にあの発作が起こったら・・・」
 そう考えるだけで不安と緊張は増し、自然と心臓の鼓動は高まり、呼吸が浅く早くなるのを自覚した。美由紀は見えない敵に怯え、自宅から一歩も出られなくなった。
 あの悪夢の様な晩から2ヶ月ほどたった頃には美由紀は自宅のマンションのゴミステーションにゴミ出しに行くことすら出来なくなっていた。今や完全に「死への恐怖」が美由紀を支配していた。

 美由紀が浩一に伴われて精神科を受診したのは最初の発作を体験してから既に半年以上が経過していた。初診の時の美由紀はひどく緊張した様子で傍らに座っている浩一の手をしっかりと握っていた。そして、伏し目がちな目は、少し落ち窪み、化粧もしていない。髪の毛は不揃いに伸び、ヘアカラーもまばらで根本から中程までは本来の黒髪で、年齢よりもひどくやつれて見えた。話によると半年以上、美容室には行っていないと言う。正確には「行けない」と言うべきなのかもしれない。
 精神科医は診断を「パニック障害」と告げ、抗うつ薬と抗不安薬による薬物療法の必要性とその期待される治療効果と薬剤による有害作用(副作用)を説明した。しかし、美由紀にはあの発作が、あの恐怖が精神疾患であるということがにわかには信じがたかった。美由紀が体験したのは胸痛、動悸、窒息感、冷や汗、全身の震え等の体の症状ばかりであった。唯一、強烈な「死への恐怖」への恐怖以外は。

 パニック障害は決して珍しい精神疾患ではない。一部のレポートによると精神科クリニックに受診する患者の内、10%近くを占めるとされている。また、循環器内科を受診する患者に占める割合は精神科に於ける割合よりも遙かに多いとされている。その症状から多くの患者が心筋梗塞や狭心症等の循環器疾患であると考え、救急車で救急医療機関を受診することが知られている。患者の多くは「死への恐怖」を体験することとなり、このパニック発作を繰り返し体験した結果として、予期不安(また、いつ発作が来るのではないかという不安)、広場恐怖(発作の再発を恐れて一人で外出したり、乗り物に乗って旅行するなどの遠出が出来なくなるといった予期不安による回避行動)等の症状が獲得され日常生活に大きな支障を来す様になる。症例によっては抑うつ状態へと至り、自傷行為や自殺企図に及ぶ者もある。この疾患概念が確立され医療関係者をはじめとした人々に知られる様になってあまり永くはない。以前はその症状から循環器疾患が疑われ、抗不整脈薬が投与されたり、不幸な症例にいたっては心臓の冠動脈バイパス術を施された症例まであったとされている。

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