心のSOS

精神科の診察室から 精神科医・長岡 和

vol.07 見えない鎖・・・児童虐待の連鎖~外傷後ストレス障害(PTSD)2

 摩耶(10歳)には、五歳年下の妹と2歳になったばかりの弟がいる。しかし、姉妹の両親は離婚し、父親が再婚したため、弟とは腹違いの間柄だ。水谷家で行われていた児童虐待が発覚したのは、妹の萌(五歳)の大怪我がきっかけであった。救急病院に担ぎ込まれたとき、萌は頭部を強打し、意識不明の状態であった。付き添っていた継母は、「階段から落ちた」と説明したが、身体には青アザが無数に認められ、診察した小児科医は虐待の疑いがあるとして、児童相談所と警察に通報した。

 児童相談所からケースワーカーが病院に派遣され両親に事情を聴いた。ケースワーカーは実父と継母に対して、児童虐待の疑いがあることを説明し、詳しい事情説明を求めたがあくまでも継母は「誤って階段から転落した」と主張した。しかし、診察を担当した小児科医の証言では萌の胸部レントゲン写真には数カ所の肋骨骨折が自然治癒したことを思わせる骨折痕があるとの事であった。当然、萌はそのまま入院となった。幸いにも疑われた脳挫傷は認められず、翌日には意識を回復していた。

 児童相談所では昨夜の一件を受けて緊急会議がもたれ、水谷家では児童虐待が行われている可能性が極めて高いとの判断のもと、両親に連絡を取り、児童相談所に来所する様に促した。継母は電話口で声を荒げて怒りを露わにした。しかし、実父を繰り返し説得し、どうにか来所に結びつけた。不機嫌そうに継母は相談室の椅子に腰掛け、その腕の中では2歳になる翔が寝息をたてていた。そして、両親に挟まれた形で摩耶がちょこんと伏し目がちに座っていた。両親に萌の一件について再度聞き取りを行ったが、継母はあくまでも「階段から落ちた」と主張した。そこで、ケースワーカーは萌の看病等からしばらくの間大変であろうから摩耶と翔を児童相談所に一時保護することを提案した。しかし、継母はこれに対しても烈火の如く怒りを露わにし、まくし立て、拒否した。継母と翔を別室に移し、実父に対して改めて児童虐待の可能性に関して問いただした。すると実父は「萌は妻になかなかなつかず、それに対して時には激しく、折檻していた」と語り、暗に妻の虐待を一部認めた。この為、実父をどうにか説得して摩耶だけでも一時保護することの承諾を取り付けた。

 翌日には小児科嘱託医による摩耶の診察が行われた。案の定、摩耶の全身に青アザが認められ、虐待の可能性が高いと考えられた。しかし、小児科医の問いかけに対し一貫して、摩耶は虐待の事実を否定したのである。そして、摩耶は嘱託の小児科医には、家族について次のように話している。

  • 摩耶:「お父さんは仕事の都合であまり帰ってこないけど、家にいるときはとてもやさしくしてくれる。だから大好き。お母さんは料理が上手で私にも教えてくれるの」
  • 小児科医:「怒られたり、厳しくされることはないの?」
  • 摩耶:「ほとんどない。たまに私が失敗したときにだけ、ちょっと叱られるぐらい」

 そして、妹や弟について摩耶は「萌はわがままでママの言うことを全然聞かないの。だから可愛くない。でも、翔くん(義弟)はいつもいい子にしている。すごく可愛いよ」と語った。

 萌の事故から1週間後、実父が児童相談所の呼び出しに応じて面会にやって来た。実父からの聞き取りによって家庭内の実態が少しずつ明らかになった。再婚後、萌は継母になかなかなつかず、継母の手を煩わせることが多かった。そして、翔が生まれ、育児に追われる中で、次第に萌や摩耶に対する折檻はエスカレートしていったらしい。水谷家の場合、うすうす実父も妻の虐待に気付きつつ、それを躾の一貫として黙認してきた。これは結果的に虐待に対して積極的に荷担しなかったとはいえ、我が子である摩耶と萌を救えなかった、いや、救わなかった事実として実父の責任も免れない。

 その後は、精神科嘱託医によって繰り返し摩耶に対する診察が行われた。そして、診察を重ねる毎に摩耶の虐待によって受けた「こころのキズ」の深さと大きさが浮き彫りにされていった。それは、摩耶の実妹に対する評価に現れていた。

 萌が順調な回復を見せ、退院の目途がたった頃、児童相談所では、萌の一時保護の措置手続きを進め、これは摩耶にも伝えられ、摩耶は当初「ここで一緒に暮らせるの? 早く会いたいな」と笑顔で語っていた。

 しかし、萌が一時保護所に保護される数日前から、摩耶の言動に変化が見られるようになった。そわそわして落ち着きがなく、食欲も減退した。萌との再会は、期待から不安へと変化していった。事実、萌が入所してくると、摩耶は明らかに実の妹を遠ざけ、無視するようになった。ときには激しく罵ったり、叩いたりする場面さえも見られた。摩耶はなぜ、妹の萌を攻撃してしまうのか。実は、その答えには、児童虐待の深刻で根深い問題が隠されているのだ。

 虐待を受けてきた子供たちは、親からの暴力を虐待だとは受けとめていない。とくに、養育や保護を必要とする低年齢の子供達は、言葉ではわがままを言って親を困らせてたとしても、決定的な場面で逆らうことはしないし、できない。なぜなら、自分は弱い存在であり、家庭から放り出されてしまっては、生きていけないことを本能的に知っているからだ。親の暴力について、暴力を振るわれた子どもはみな一様に、「悪いのはわたし(ぼく)」と答える。虐待の実態が表面化しにくいのはこのためである。

 摩耶のケースでは、ここに腹違いの弟が絡んでくる。継母は、実の息子である翔には暴力を振るっていない。お腹を痛めた子供だから暴力を振るわないのかもしれないが、いずれ虐待の対象になったかも知れない。

 ではなぜ、摩耶は実の妹を攻撃するのか。たとえば萌が虐待を受けている最中に、摩耶が妹をかばったとする。少なくともそうしたそぶりを見せたら継母はどう思うだろう。自分の躾に逆らったとして摩耶にも虐待の矛先が向けられるのは、日の目を見るより明かだ。弱い立場であることを自覚している子どもは、親には刃向かわない。傍観者になるか、継母に荷担するか。選択肢は限られている。積極的に萌を攻撃しなくても、実姉妹連合を組むリスクをあえて犯すことはしない。自己防衛の為には、権力者にすりよる方が利口である。

 結果として摩耶は、自分の身を守るために妹を「生け贄」として捧げたのだ。実の母親を喪失するという体験を共有してきた自分の妹を切り捨てたのだ。当然、葛藤はあっただろうし、その苦しみは図り知れない。一方、長男は継母の宝だ。摩耶もそう思っていたことだろう。弟にやさしくすれば、継母に対する点数稼ぎにもなる。摩耶が精神科嘱託医に語った内容から徐々にこの家族の中にある複雑な関係と虐待から生み出されたいびつな摩耶と萌の姉妹関係、そして、摩耶の大きな「こころのキズ」が紐解かれていった。

 摩耶の父親は、精神科嘱託医から一連の報告を受けて青ざめた。虐待によってゆがめられてしまった姉妹の関係と摩耶の葛藤を聞かされて、涙さえ流した。そんな実父の説得によって、妻はようやく虐待を認めた。萌が病院に担ぎ込まれた当日、些細な失敗に腹を立てた継母は、萌を抱え上げ、床に向かって投げつけたのだ。打ちどころ悪く、意識を失ったため、継母は慌てて救急車を呼んだのだという。

 継母の幼少時からの生活歴の聴取の結果、継母もまた虐待を受けながら育ってきたことがわかった。そして、躾と称していつの間にか激しい虐待行為に及び、その行為の途中からは記憶があやふやであり、欠落していることも解ってきた。つまり、自分が虐待を受けてきた場面がフラッシュ・バックとして再現され、解離性症状と評価出来る症状を呈するなど継母の精神病理が浮き彫りにされていったのである。つまり、継母も虐待の被害者のひとりであり、「外傷後ストレス障害(PTSD)」との診断に足る症状を呈していた。

 その後、警察による捜査がはじまり、事故は事件として扱われるようになった。継母は傷害事件の容疑者になった。

  今後の課題は摩耶、萌の受けた「こころのキズ」に対する精神科的治療のあり方と姉妹のトラウマによる見えない鎖からの開放が可能か否かである。時として、この見えない鎖が更に彼女たちの人生を大きく左右し、人格形成に大きなゆがみとひずみを残し、人格的な障害を呈することは決して珍しくはない。更に、その結果として、彼女たちが、将来、母親になった時、今度は我が子に虐待をふるってしまう結果と成り得るのである。この見えない鎖が児童虐待の世代間連鎖を生み出しているのだ。

 この姉妹に関する精神医学的診断書には「外傷後ストレス障害(PTSD)」と記されていた。

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