心のSOS

精神科の診察室から 精神科医・長岡 和

vol.03 「解っちゃいるけどやめられない、止まらない」~強迫性障害~

 美里は小さい頃から几帳面で、しっかりした子どもだった。クラスメイトからは「美里ちゃんに任せとけば大丈夫だよ」と厚い信頼を得、クラスでも一目置かれる優等生だった。例えば、美里は学校で配られるプリントはキチンと角を合わせて綺麗2つに折り、それを種類ごとに区分して綺麗にファイルした。その性格からクラスメイトに限らず担任教師からの評価も高かった。「美里ちゃん、この学級新聞のまとめ役お願いしてもいいかしら?」クラスの誰もが美里の几帳面で、生真面目な性格を信頼してくれた。美里にとってもそのことはとても嬉しい事だったし、小さな自信でもあった。

 高校生になった頃には、必ずといっていいほど定期試験の前には何人ものクラスメイトが「美里、ゴメン。また、日本史のノート貸してもらってもいい?」と「美里ノート」は引っ張りダコといった具合だった。それほどに美里のノートは「完璧」だった。綺麗にまとめられ、一言一句、漢字の間違いなども無かった。当然、ノートを借りたクラスメイトはコンビニで「美里ノート」を早速コピーした。しかし、最近、美里はクラスメイトに自分のノートを貸すことが素直に喜べなくなっていた。「嫌だよ。そんな言うなら自分でちゃんとノート作ればいいじゃん!」本当のところ美里は心の中でそう叫びたい自分に気付いていたし、そんな自分がすごく意地悪な気がして嫌だった。なぜ美里のノートは「完璧」なのか。それは美里がいつの間にか「完璧」でなければ許せない美里になっていたからだ。例えば、こんな風だ。日本史の授業があると美里は先生から配られたプリントをキチンと綺麗に二つに折り、ファイルした。そして、黒板に先生がポイントとして書き出した語句や歴史上の人物などは別のノートに書き出し、自宅で復習してそれらの説明を付け加えた。更に、配られたプリントには「美里の重要度チェック」で綺麗に色分けされたアンダーラインが引かれていた。試験前にはそれらのポイントを勉強すればいいのだ。今まで、美里はこんなやり方を日本史に限らず、ほとんど全ての教科に関してやってきた。自宅の本棚にはキチンと教科ごとに「完璧」な「美里ノート」が整然と並べられていた。中学までの成績は当然、クラス、いや、学年でもトップクラスであったし、そのやり方でいいと美里も信じて疑わなかった。しかし、高校に進学してからは少し違っていた。美里の成績は少しずつ下がっていた。それは、高校に進学してからは今までの様な「美里ノート」を作るには科目数も、それらのボリュームも桁違いに増加していたからだ。しかし、美里は今までのやり方を変えられなかった。そして、その結果、完璧な「美里ノート」を作ることに時間は割かれ、毎日の授業の復習だけで予習の時間までは作り出せなくなった。美里もそんな自分のやり方の限界に気付いてはいた。しかし、「解っちゃいるけどやめられない」美里の心理がその頑ななまでのやり方を変えさせなかったし、変える事が出来なかった。いつの間にか、完璧な「美里ノート」を作ることで美里は精一杯になっていたのだ。期末テストの結果が返って来たとき美里は愕然とした。そこには自分の成績表とは思えないような点数が並んでいた。一方、クラスメイトは「美里、ありがとう!美里のおかげで今度の日本史良かったんだ!」と明るく声をかけてきた。美里の目には何故か涙が溢れだしていた。

 美里の様子が明らかに変わり始めたのは高校2年生の秋頃からだった。朝から学校に出かける時に、いろんなことが気になる様になった。「財布を持ったのか?」「バスの定期券はあるか?」「今日提出予定のプリントはカバンに入れたか」「優子に貸す約束をしたCDは入れたか?」など、全て昨夜のうちに確認したことだった。「行ってきます・・・」と家を出た美里のこころの中では既に強い不安が芽生え始めていた。そしてその不安に耐えられず、バス停近くになって慌ててカバンの中を確認した。「ちゃんとある・・・」それを確認すると少しだけホッとした。しかし、バスに乗ってからも同じ事が再び気になり出す。「さっきも確認したはずなのに・・・」バスは朝のラッシュ時で身動きすることすら出来ないくらいの状態だ。「でも・・・」美里はカバンの中を確認せずにはいられなくなった。大袈裟だが、確認しなければ気が狂いそうだった。ついに、美里は途中でバスを降りてしまった。当然だがカバンの中には美里が確認したかった全てのモノとコトがそろっていた。「私、バカみたい・・・」美里はバス停に立ち尽くし呟いた。美里はいつしか毎朝のようにこんなことを繰り返すようになった。そして、毎日のように学校には遅刻した。しかし、この美里の変化はまだまだ、プロローグに過ぎなかった。

 美里が母親に付き添われて精神科医のもとを受診したのはそれから、既に4年近くの月日が経っていた。その後の美里は徐々に自宅に引きこもり、学校にも行けなくなった。そして、ほとんど外出することも無くなり、自室に閉じこもった生活を送るようになった。一度は高校2年生を留年したが、結局は退学した。あの几帳面で、頑張り屋の美里の面影は既にそこには無かった。少し、怯えたように母親の傍らに座り、久しぶりの外出のせいなのか緊張した様子で、これから繰り出されるであろう精神科医の質問に不安げな表情を見せていた。

 母親によると17歳頃から少しずつ美里の変化に気付いていたと語る。しかし、元々、几帳面な性格であり、一度決めると頑固なまでにこだわる性格であった為に病気だとは考えなかったと言う。不登校ということで何度か学校の養護教師やスクールカウンセラーらに相談は持ちかけたが「本人が学校に行けるようになるのを待ちましょう」といったアドバイスだけで、結果的にはその後美里が登校することは無く高校は退学してしまった。

 母親によると最近、入浴の時間が驚くほど長く、日によっては2時間近く入浴していると言う。また、繰り返し繰り返し手洗いをするようになったと言う。不潔恐怖によってこのような症状傾向が顕在化したのである。確かに美里の手を見ると潤いはなく、20歳の若い女性の手とは思えぬほどカサカサで所々、アカギレの様に出血した後も確認できた。そんな美里の最近の様子を見てさすがに精神科的な疾患を疑うようになったと母親は涙ながらに語った。

 精神科医が美里と母親に告げた診断名は強迫性障害であった。そして、抗うつ薬を主体とした薬物療法の開始の必要性とその治療効果や副作用・有害作用に至るまでを説明した。即ち、美里の現在の状態は本人の性格上の傾向ではなく、治療対象とすべき精神疾患だと初めてこの時に告げられたのである。美里の性格だと考えられていたこだわりの強さや生真面目さなどの中には既に病的な傾向が伺え、発症は少なくとも6年以上前であろうと精神科医は付け加えた。美里の元来の性格と強迫性障害としての強迫観念、強迫行為、確認行為等を厳密に評価、区別することは極めて難しいことである。その点によって、結果的には発症してから約6年間もの長きに渡り美里から適切な治療を受ける機会を奪うという二重の不幸に見舞わることとなったのだ。強迫性障害はその症状特性から精神疾患だと診断されるに至るまで、発症後長い年月の経過をみる神経症性疾患の一つとされる。その結果、診断が確定され、薬物療法が開始されるに至るまでにかなりの病状の進行を認めることとなるケースが多い。ある報告によると強迫性障害と診断され治療開始されるに至るまでに発症後平均10年の空白と苦しみの時間があるとされている。

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